玉川学園・瓊寶庫山(ぬぼこ山)本宮

商店街のこと

世界が滅亡すると言われた1999年に開業して25年目を迎えることとなりました。
とにかく感謝しかありません。
大成功はしませんでしたが、細々と毎日過ごせています。
「男はつらいよ」で受験勉強に煩悶する甥の満男が、旅立つ寅さんに訊ねました、
「寅さん、人間はなんのために生きてるのかな。」
寅さんは応えます「なんつうかなぁ、ほら、生まれてきてよかったなぁ なんてときが何べんかあるじゃねぇか。人間そのために生きてるんじゃねえのか。」

この土地の商売でたくさんの「ああ、生まれてきてよかった。」を与えていただきました。
14歳の不良役で、たった数秒間の出演の僕に、役支度を整えた渥美清さんが、わざわざ楽屋に挨拶に来てくださいました。


ご予約の合間、空き時間があるときは、ぬぼこ山に参拝し、この土地への感謝をお伝え致します。そんな「瓊寶庫山(ぬぼこ山本宮)」とはあらためて

名称の起源は、吉備の周匝郷(現在の岡山県全域とその周囲一帯のこと)の抜剣山(ぬぼこ山)に在りましたことから万葉仮名で、「瓊寶庫山本宮」とされ、「ぬぼこ」とは霊威ある御剣と記載されています。
御祭神は、
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
大国主尊(オオクニヌシノミコト)
伊勢津彦尊(イセツヒコノミコト)
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)
神皇産霊尊(カミムスビノミコト)です。


素戔嗚尊は護身の危難をかえりみず八俣のオロチを斬り払い、奇稲田姫尊をお救いになり、ご結婚あそばされ、八重垣造の宮居に住まわれました。
のち、御子神・大国主尊、その御子神・伊勢津彦尊と共に国土経営の大業を成し給い、わが国の大礎を確立されました。
そうした素戔嗚尊の根本本宮が日本最古の神宮・吉備石神神宮であることは日本書紀にも明らとなっており、その秘宮の祭祀が天武朝のころより途絶え、御神跡さえ不明になっていることを、本宮社伝・抜剣影山流宗家故宮崎雲丹先聖の長年の研究探査の結果、昭和8年、ついに御真跡を発見されました。

そしてこの地(町田市)に多摩野宮として、出雲造の社殿を造営され、遷宮祭り、祭祀を中興されたのが起因のようです。

また、抜剣影山流(ぬぼこかげやまりゅう)とは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の天羽々斬剣(降魔の剣法)の伝流で、今から940年ほど前、丹波国の一之宮・元出雲神社の神影山に隠栖(隠棲)されていた影山善賀入道清重公を中興の大祖とする上代古流の武道のようです。
元来、古武道は他流試合を禁止していたり秘伝であったりするため、必然と表立った活動をしていないことも多く、 そのため、明治維新を迎え廃刀令が出されたことで武士階級が崩壊し、価値観も変容したことで伝承の危機となりました。
その後も第二次世界大戦後の混乱などを経て、人知れず消滅していったケースも少なくないようです。
影山流の稽古では師匠が神社に来て稽古をつけるのは祭事の際など、年間を通じて多くはなく、
しかも手取り足取り教えてもらえるわけではない。
昔の職人技の伝承や芸事の習得がそうであったように、教わるのではなく、師匠の動きを見て覚えていくというスタイルのようです。

瓊寶庫山本宮は崇敬神社であり氏子はおりません、これは抜剣影山流の仕来りのようです。

僕がこの街で開業した24年の間に、2度の火難に見舞われています。
しかし、こうして、こんにち地域の強烈なパワースポットとして崇められ続けています。
まるで渥美清さんと間近でお会いしたような強烈なオーラを放ち続けています。
参拝を終えると「生きていてよかった。」
そう思えるのです。

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