坂本龍一さんを偲んで。

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3月28日に逝去された坂本龍一氏。
畏敬の存在でしかない故人が、つい数日前まで同じ時代に存在していたことが逆に不思議でありました。
お悔み申し上げます。

音楽とファッションで世界を驚かす。

トヨタ・ソニー・ホンダ。MADE in ジャパンが世界を席巻した70年代、音楽シーンではYMOはテクノミュージックという新しいカテゴライズで世界を震撼させたようです。
74年に生まれた僕には馴染みのないアーティストであってその存在はよもや伝説でした。
中学1年、前髪だけ長くしたり、ツーブロックにしてみたりと当時のチェッカーズカットで生活指導の常習犯であった僕が、何気なしにもみあげもそぎ落としたヘアスタイルで登校したその日の生活指導は「今度は坂本龍一か!」と教師に一蹴され、その畏敬な存在を身近に感じた体験でした。

N・Y在住中の2001年に起こった爆破テロ、その光景を目の当たりにした坂本龍一さんが、その事件以上に恐怖を覚えたのは、アメリカはテロになど屈しない!全国民が一丸となって国家のために、正義という大義で復讐を誓うという、もはや理屈はない、湧き上がるスローガンであったようです。
この時、音楽は何もできなかった。その時の無力感が後の、東日本大震災の復興を支える原動力であったようです。

音で伝える。

1986年、アイドル歌手、岡田有希子さんが自殺を図りました。
思春期の僕にはあまりにショッキングなニュースすぎました。
生前最後のリリースとなった”くちびるNetwark”という曲が今でも脳裏で流れ続けているのは、そのショッキングな事件のトラウマであると思っていました。
ベトナム戦争反対から波及した学生運動の最中、音楽を通し、反戦へのメッセージをのせた歌が歌われていた60年代、坂本龍一さんはメッセージをのせた音楽はつくらない、メッセージが響く音楽をつくっていきたいと当時10代で決心していたそうです。
くちびるNetWork“が脳裏から離れないのは岡田有希子さんの凄惨なトラウマではなく、坂本龍一さんが奏でる音楽であったからなのだと後に認識しました。
疲れ果てた20代、メディアから流れたピアノの旋律”Energyfrow”。
音楽で身体と心は治癒するという初体験をしました。

音楽と文学と芸術。

坂本龍一さんの父、文藝誌編集長の坂本一亀氏。
自宅は幼いころから山積みになった書籍に囲まれていたようです。
音楽だけではなく文学にも造詣深く、数々残る名言、言論の人を引き込む表現力もそうした所以なのだと思います。

受け継ぐ思い。

坂本龍一さんが亡くなる直前まで憂いていた問題。
原発再推進への警報。
神宮外苑の再開発による自然破壊。

最近の自分自身もブレブレとなり、スタンスが迷走していました。
しかし、あの、畏敬の坂本龍一さんが命をかけて伝えてきたこれらのメッセージ、その次世代である僕らがしっかりと受け止めなければいけない。
そう強く思いなす今日でした。

 

 

 

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